私がここに病院を造る際、周辺にはお産婆さんがたくさんいらっしゃいましたが、その方々は「いよいよ産婦人科ができる」と、仕事上非常に脅威をもたれました。しかし、私は「みなさんの力をお借りしたい。ここを中央という気持ちで、ここに妊婦さんを連れて来て、ここで仕事をしてください。みなさん好きにやってください。それを私が補助します」というやり方を選びました。ですから、開業している助産婦さんがみんな来て、一番多い時で、助産婦さんが十人もいました。そして分娩料は助産婦さんがもらっていく。私の方は、入院料とか管理料とかをもらう。そういうシステムでやったのですが、それが本当にうまくいきました。
と言うのも、今、あまり進歩しすぎた医療から反省して、自然派に帰っている面がありますから、その意昧では非常に良かったんです。それを私が見守っていて、何かあった場合には私がお手伝いしますよと。ですから、非常に良いことには、いくらお産に時間がかかっても、助産婦さんが待っているんです。たとえ深夜になろうと、2日かかろうと、ずっとつきっきりで待っているんです。
今の医療は非常に難しい面があり、妊婦さんも注意しないといけないし、医者も注意しないといけないということがあります。が、その反面、お産には何千年もの歴史がありますから、他の医療と違って、いちばん自然なものであるという考え方で、なるべく自然に添う様にし、十二分に注意はしているけど、むやみに手を出さない。
消極的な積極さといいましょうか、「『神はこれを癒し、我は包帯するのみ』という言葉があります。医者というのは自分が主体ではなく(実際に神様がいるかどうかはわかりませんが)自然というものが主体でことを運んでくれ、我々医師はただ包帯をするのみである」という考え方で、医師は主役ではなく端役、主役はあくまでも妊婦さんとの思いがあります。そして、何千年も続いている分娩、「自然がいいや」という考え方で、要するに妊婦さん本位。それが非常に良く、実に開業して三十数年になりますが、医療事故は1例もありません。帝王切開率も非常に少ないと思います。もちろん異常があれば病院に運びますが、自然分娩を根本としています。それが案外うまくいくんですね。
ところが、妊婦さんが主体といっても、昔の様に「妊婦さんが何も知らない」では困りますから、ある程度妊婦さんも勉強しておかなければいけません。その意味ではビーマムなど読んで、「先生、私、こうやったらどうでしょう」って、自分を主体に話してくれれば、医師の方は「そうやったらいいかもしれないね」って、『妊婦さん主体』が原則の進行ができます。
ただ心配なのは「助産婦さんのところで何にも注射もされずに非常に良かった」ということが誇大広告されると、お産というものは「全て安全」との認識から、病院でしなくてもよいという考え方になってしまいます。そうではなく、あくまでも病院でしなければならない分娩もありますから、そのへんをわきまえ、分娩にのぞまれるとよいでしょう。