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02

K・A

私たち50人の出産体験記/シオン発行より


 私は31才の時に妊娠しました。その時、子宮筋腫が二つありました。一つは握りコブシ大と、もう一つはその半分ぐらいの大きさだったのです。当然お医者様には手術を勧められましたが、私は手術をしたくなかったのです。その理由は、単に体にメスを入れたくないだけでなく、食生活を改めれば子宮筋腫は消えるという予感があったからです。

 当時、ガンは食生活を変えることで治るということが話題になっていたこともあります。

 私の仕事はマリンバの演奏活動と指導です。「我が人生はマリンバと共に」と表現しても過言ではないくらい、当時生活の中心をマリンバに置いていました。マリンバのしやすい服装から、マリンバに集中しやすい食生活等。マリンバのためなら早朝であろうが、徹夜になろうが苦にならないのです。

 例えば、マリンバに集中しやすくするには胃が重くなる食物はしぜんに避けていました。*大食とか油っぽいも の、多種類の副食。それに三食いただくことも、まず無理でした。そしてそれらは、ちらほらと耳にする健康によい食生活とは、およそ質、量共に遠いものでした。

 だから妊娠を期にその食生活も改めてみたいというのもあったのです。

 そんな時、兄が舞踊家で、ヨガの先生と知己であったものですから相談してみることにしました。妊娠期はホルモン分泌も豊富だから、妊娠中の過ごし方を正しいものにすると、体は十月十日の間に変わるものであること。私の少し前に二つ卵巣膿腫のEさんも、妊娠中に食生活、運動をすることで出産時には膿腫も消えて自然分娩したこと等を話してくださいました。

 子宮筋腫を二つ持っていても胎児の成長は順調でしたので、手術しないで、食事と運動で出産しようと決心もこれでつきました。「妊娠は女性が生きながらにして生まれ変われるチャンスです」という先生の言葉に自分をかけてみることにしました。

 母胎育成クラスは本来は妊娠4か月から入会できるのですが、二つの子宮筋腫がどうなるのか?また浜松から新幹線で東京の渋谷区まで通う体力的なことも考慮して、私の入会は6か月からにしてくださいと言われました。

 妊娠6か月になっても異常出血等もないので浜松から毎週、教室に通いました。食事指導というのも、生まれて初めて受けました。浜松はメロンが豊富な所で、食べやすく胃も重くならないものですから、私は毎日欠かさず食べていたのです。食事指導でメロンは止めてくださいと言われたので、その日から一度も口に入れることがありませんでした。今までの食生活が偏ったものであったから、そのバランスを取るために、大きく変えなくてはいけなかったのです。先生は「筋腫をとにかく消すことが第一だから、Kさんの食事指導は少し厳しいです」と、言われました。私自身は、足りないものを足している充実感がありましたので、それ程、苦にもなりませんでした。

 ちょうど妊娠8か月頃、小さい方の子宮筋腫が消えているのが健診でわかりました。努力の結晶が見え始めたのです。胎児も順調に成長していて、私の心身も安定していました。今まで、マリンバに恋していた自分が、いつしか母親になる喜びと自信が、じわじわと湧いてくる実感が得られたものです。マリンバの練習も、毎日少しずつ続けていましたがそれは胎児にやさしいものであり、胎教に良いようにしたものです。

 いよいよ臨月です。健診の時、お医者様から帝王切開になりますと言われました。その時点で握りコブシ大だった筋腫は、半分以下にまで小さくなっていたのですが・・・・お医者様は帝王切開の時に、同時に筋腫を切除する考えだったのです。

 二つの筋腫の時ですら手術しなかったのに出産が帝王切開では、何かむなしいものが残りました。

 その後、60代の先生に再度診ていただいたところ、筋腫の位置、大きさも自然分娩に支障がないので、「自然分娩でできるだけやりましょう」という答えが返ってきました。

 私はすぐ「私も頑張りますから自然分娩でお願いします」と言いました。

 しかし、実際はその筋腫がどうなるかはわかりません。そこで、出産予定日の2日前から入院することにしました。陣痛は出産当日の朝から始まりました。朝の10時頃からもしものことがあってはということで分娩室に入ったり、出たりを繰り返したのです。陣痛が強くなっても筋腫の状態は変わりありません。結局夜の10時頃に無事、自然分娩でお産をしました。

 最終の体重増は5キロでしたが、3,180グラムの男児でした。子宮の中は狭くもなかったのだなと安心したものです。

 出産という一大事を終える間もなく、マリンバの演奏会が4か月後に待っていました。幸い両親は、私の生活に全面的に協力してくれました。演奏会は東京で開かれたのですが、実父は息子の世話係、実母は食事係という恵まれた環境の中で、私は再びマリンバの世界に没頭することができたのです。実父は音楽家であったので孫に色々の音楽を聴かせては喜んでいました。

 息子も生後4か月頃には、既に音に対して鋭いものがあったらしく、軍艦マーチをかけると、タクトを振るような素振りを見せるので、ますます実父の熱の入れ方も強いものになりました。息子は初老の両親と音楽の環境の中でスクスクと育ちました。一見オバアチャン子ではあるのですが、学校ではボス的存在であることも面白い性格だなと思えます。親の口から、否、指導者の口から言うと、やはり息子は胎児の時から、音を聴いていたのでしょう。マリンバを自分からやりたいと言った時も、自然な流れの中で、いつしか息子もマリンバができるようになったという感覚です。特訓をしたこともありませんが、そのうまさに感心することがあります。カエルの子はカエルというのでしょうか、ですから中学生にマリンバを指導する時、小学4年の息子にまず演奏させてから、中学生にしていただくこともあります。息子は、今では私の助手的存在にまで成長したのです。

 ところで、残った筋腫のことですが、出産して約10年後、つまり40才の時に急に大きくなりました。手で触ってもわかるくらいに。気にはなっていたのですが、演奏活動と指導、それに夫が台湾に転勤で、生活が落ち着かないのです。昔やった食生活は、なかなか実行できないのです。そういうジレンマの中にあって、日々は経過し、筋腫は更に大きくなってきたようです。

 病院で診てもらうと、即手術でした。それで、もう一度、ヨガの先生にこの筋腫をどうしたら良いか尋ねに行きました。答えは、大きくなって年月がたっていること等々で、とにかくこれからもマリンバの演奏を続けていくことが、第一であるのなら、手術して、その後に体を作り直しましょうということでした。妊娠5か月の胎児の大きさにまで成長してしまった筋腫です。これが子どもであったら、どんなに良かったことだろうと思いました。十月十日の間に体を変えることができるのですから。

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