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寺下実代子

私たち50人の出産体験記/シオン発行より


 7年間も子どもができなかったことがウソのように、今、8才、6才、3才の3人の元気な男の子に恵まれて、それはもう賑やかな毎日を送っております。もし自然食やヨガと出会っていなかったら、あるいはまた、なんの苦労もなく子どもを授かっていたら……おそらく私の妊娠、出産、育児、そして人生そのものも今とは全然違ったものになっていたと思うと、あの7年間があってかえって良かったような気さえいたします。32才の初産が私にとっては出産適齢期だったようです。

 結婚して2、3年たっても妊娠しないので病院で診てもらうと「異常はないのでそのうち妊娠するでしょう」との答え。ところが、いつまでたってもその気配がないのです。後から結婚した友人たちから次々と送られてくる子どもの写真入り年賀状を、その頃の私は複雑な思いで受けとめていました。

 「誰もが平気な顔でやっている“子どもを産む”ということがどうして自分にはできないのだろう。何がまちがっているのだろう。」と悶々としている時、主人の母に誘われて自然食の店についていったのです。そしてそこで見つけた「玄米食で子宝が授かった体験談」をもとにさっそく食生活を変えていきました。今まで、太らないのをいいことに、かなり美食、大食をしてきた私は、あごの所にいつも吹出物ができていたのですが、食生活の変化と共にいつしか肌のトラブルはなくなっていました。

 はじめは玄米、ごま塩、キンピラにこだわりすぎて、あやうく生理がとまりかけるという失敗もありましたが、いろいろな本を読んでいくうちに、生活全体を通して自然に生きていきたいと考えるようになりました。そしてヨガを始めたのです。すると血のめぐりがよくなったのか気分爽快。基礎体温のグラフはまるで見本のようにきれいに変わっていきました。また「玄米食で不妊を治す医師」という記事を拝見してお訪ねした、当時82才をすぎて現役でいらした鎌倉の矢内原先生のお蔭もあり、ついにめでたく妊娠したのです。

 その後菅原明子さんの「太らないお産の本」で、壱伊先生のスタディハウスの存在を知りました。妊娠前にヨガが大好きだった私は、これだ!とばかりすぐにお電話して、それ以来なんと3回もお世話になってしまったというわけです。バーの上に足をのせバレエのレッスンさながらのポーズなど「妊婦がこんなことして大丈夫?」、あるいは「こわい」と思えるかもしれない大胆なポーズも、何の不安もなくできてしまうのです。ヨガの帰りはもう世界がバラ色。今から思うと妊娠中の方が体調がよかったくらいです。代々木上原まで通う途中、つい駅の階段を一段とびで駆けのぼってしまう、はたから見たら、ギョッとするような元気な妊婦だったことが思い出されます。  妊娠中の食生活や赤ちゃんの離乳食などについても指導してくれました。そのお蔭で安産、母乳の出がよい、子どもが健康、産後肥満なし、といいことずくめの結果が出た私は、妊娠、出産という女性にとっての大仕事をとても楽しく充実した経験にすることができたのです。

 ひとり目は広尾の日赤、ふたり目3人目は飯田橋の八千代助産院にお世話になりました。*今、どのお産をふり 返っても、いいお産だったという満足感があるのは、多分本番で呼吸法がしっかりできたからだと思うのです。「痛…ぃ!」と叫ぶかわりに、収縮が来たぞ!と感じたらひたすら「ヒッヒッフー、ヒッヒッフー」とやったのです。ヨガをやっていたって痛いものは痛いのですが、死ぬほど痛い時間はふつうの人より短いと思います。また、何か月間か、深い呼吸を続けてきたことがとてもよかったのではないでしょうか。日赤では、初産だから長びくはずと決めつけられて、待たされている間「ヒッヒッフー」とやっていた時はいったいどこまで痛くなるのと思いましたが、もうこれ以上耐えられないと思う頃にはあっという間にお産になってしまいました。

 頭が出てきた後、肩から体、そして足が、ぬるっとぬけ出るその感触はなかなかの快感。「やったぁ。男の子?五体満足ですか?鼻筋はちゃんとある?」などとその瞬間考え、感動のごたいめーん。「うーん、なかなかハンサム」。ふたり目の出産の時はちょっと冷や汗もの。本番前にフライングもあったし、主人がついていてくれたので良かったようなもののあぶなかったぁ……。

 初産が早かった私は、今度はもっと早くなるかも。もしひとりの時に産気づいたらどうしょう。助産院に向かうタクシーの中ででも産まれたらどうしょうと、予定日が近づくとお腹の張りに異常に敏感になってしまったのです。月満ちて自然に生まれるのを静かに待とう、と思っても、気持ちは落ち着きませんでした。出産日の5日前の夜中、10分おきに規則正しくお腹が張るので主人に車をだしてもらう。ところがどういうわけか途中で道に迷ってしまい車を止めているとおまわりさんが近寄ってきた。「助産院に行くところなんですけど迷ってしまって」と言うと「そりゃ大変だ、ついてきてください先導しますから」「エーッ!ウッソー!」と内心大喜びで、サイレンを鳴らすパトカーの後をついていく。ところが着いたらなんだかお腹の収縮は止まってしまったみたい。私は顔をゆがめお腹をさすり、内心「ごめんなさい」とつぶやきながら「ありがとうございました」。(あの時の親切なおまわりさん、本当にありがとうございました。でも結局あれはただの前駆陣痛だったのです。スミマセン)

 いよいよその日、お昼すぎ主人と2人で渋谷で買物をしているとなんだかおかしい。タクシーで原宿の実家へ。おしるしはまだない。お風呂に入って様子をみる。痛くないがやっぱりおかしいので3時半、実家を出る。ところがあいにく小雨が降り出しタクシーがつかまらない。夕方になり渋滞気味だ。どうしよう。電車で行こう。もたもたしていられない。3時40分原宿駅を出る。

 ところが山手線に乗ったとたん痛みがきた。代々木に着いて、痛みの合間に急いで乗りかえる。総武線ではシルバーシートに座ることができたが、一駅ごとに強い痛みがくるようだ。「ああまだ千駄ヶ谷」「ああまだ四ッ谷」「やっと市ヶ谷」「飯田橋に着いた」と心の中でつぶやきながらたどり着いた。

 電車を降りてもホームで1回、改札口に着くまで1回たちどまり「ヒッヒッフー、ヒッヒッフー」。もうここまで来たら倒れても迎えに来てもらえると自分を励ましながら4時5分助産院にたどり着いた。分娩台に上がるともう「フーウン」というテンポになってしまう。先生方は交代で夕食をとろうという相談をしてらっしゃる。「あなたもおみそ汁くらいいかが?」「あっ、はい。あっ、でももう産まれそうなのでけっこうです」「えっ、あらもう全開だ。食事なんてしちゃいられない」「あら足カバー片方どこおいた?」「酸素、酸素」「あれは?」ともう大騒ぎ。

 しばらくしたら痛みのない時にいきんで押し出す。痛みがきたら手で宙をかくようにしてハーフーハーフーと力を抜く。ところが私がそこでまちがえて短促呼吸。「ハッハッハッ」と夏の犬になろうとしたので先生方が突然私の手をとって宙を泳ぐような動作をさせた。一瞬ギョッとなった私は「な、なんですか?」と思わず叫んでしまった。そんなこんなで5時20分、次男坊無事誕生……ホッ。

 パパは開けっ放しのドアのすぐ外で待っていてくれた。本人の希望で産まれてから入室してもらったが、あせっていたのか分娩室の器具に頭をぶつけてしまい私は大笑いしてしまった。

 3人目は12月31日が予定日で、クリスマスまでに産まれるかと思いきや、全然出て来ない。クリスマスのごちそうとお節料理をたっぷり食べて産まれて来たのは丸々大きな三男坊。3人目が男とわかると、なぜか皆笑うか黙るかなのです。(気持ちはわかるけどボクに失礼だよね)今度は女の子かと私自身も思わなかったわけではありませんが、3兄弟というのもとてもいいものです。3人で遊んでいる会話をじっときいていると実に面白い。けんかもするけどとても仲が良く「兄弟っていいな」と感動させられることもしばしばです。幸い健康に恵まれ、親バカですが聡明で思いやりのある子どもたち。

 近頃はお手伝いも良くやってくれます。私も今年40才になりましたが、お蔭様で、白髪も小じわもなく、歯も丈夫で助かってます。そして40才の誕生日、自分へのプレゼントとしてクラシックバレエを習い始め、元気です。子どもを持つことによって制約される部分もあるかもしれませんが、それ以上に子ども達は、私達夫婦に多くの喜びと人生の広がりと豊かさを与えてくれました。

 それにしても、出産が近づくとできるだけそばにいられるよう配慮してくれた夫のお蔭で、私は本当に心細い思いをしなくてすみました。産後もカーネーションの花束をかかえて来てくれましたし、実家には床上げまでの間、世話になりました。今思うと、多くの方の助けがあってこそ、ここまでこれたのだと感謝せずにはいられません。どうかひとりでも多くの方が満ち足りた思いで親子のスタートの時を迎えられますようお祈りしております。

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