ア〜ア また始まっちゃった。
毎月、毎月、繰り返される、憂鬱な1週間。生理痛でもないのに、体はだるく、考えるのは赤ちゃんのことばかり。独身時代、毎月きちんと始まり、別に気にもならずに過ごしてきた日々が、こんな形で、自分の生活に波風を立てようとは……想像さえもしませんでした。
あの頃の私の心の中には、大きなお腹で幸せそうに歩いている女性を見かけると、「羨ましい」と思う反面、「悔しい、どうして私だけが」という、憎しみの感情が必ず潜んでいたはずです。不妊で悩んでいる女性の中には、たぶん、こんな思いをしている人が多いのではないかしら。
結婚3年目も過ぎて、そろそろ、病院通いにも諦めを感じていた頃のことでした。隣人に、『壱伊スタディハウス』を紹介されたのです。そして、壱伊先生のご指導のもと、体質改善、ヨガと、通い始めた時からが、妊娠〜出産〜育児という流れに乗れた最初の一歩だったのではないでしょうか。
ヨガと同時に通院もして、何度か人工授精も経験しました。そして数か月が過ぎ、34才の誕生日を迎える直前、『妊娠』と判定されたのです。医師の手を借りることなく、本当に自然な形で妊娠できたことは、何よりの大きな喜びでした。
まだお腹も目立っていないのに、マタニティドレスなんか着ちゃって、もうルンルンです。
つわりもほとんど無かったので、今までと変わりのない食事で、勧められて食べ始めた麦ご飯の美味しかったこと。先生から、『麦ご飯』と、伺ったときには「エーッ何それ!」と、思ったものでしたが、食べ始めたら、主人の方が気に入ってしまったらしく、「体調が良くなったみたい」と、喜んで食べてくれるほどでした。
妊娠前の体重が、42キロ、出産直前で48キロ、子どもも2,736グラムと、小さめだったせいもありますが、体重増加もベストで、退院時には、完全に元に戻ってしまいました。妊娠時も、身が軽かったせいでしょうか、よく動きまわれましたし、ヨガに行くのが本当に楽しみでした。「早く産まれちゃうわよォ」の、陰の声もありましたけど。……だって、独りで外出できるのもあとちょっとじゃないの。
多少お腹が邪魔でしたが、庭の草取りだって、ちゃ〜んとやってましたよ。室内では、ベビードレスや小物をいっぱい作りました。ちっちゃくってかわいいから、つい夢中になっちゃって。もう少し優雅なマタニティライフを送っていても、良かったんじゃないかしら………なんて思ったりもしています。どうしてかといいますと、子どもの性格がですね「お願い、チョット待ってよ」と言うくらいにマメなんですよね。
とにかく、お腹の中にいるときから、良く動いてくれましたけれど、産まれてからも、それはもうマメのマメ子さんで、生後3か月の頃には、ベビーベッドから吊るしたビーチボールを、足で挟んだり、蹴飛ばして遊ぶのが大好きでした。今でも、ボール投げでは、手が出るより先に足が出ちゃってますけど。
そうそう、まだオムツをしていた2才1か月の時に、ちょっと乗せてもらったはずの補助付の自転車が、いきなり漕げるようになってしまい、面白くて止められなくなって、とうとう急いで、自転車を購入したことがありました。
普通は、親が子どもに「早くしなさい!」と言っているのが、一般的なのだと思います。*ところが我が家では
、両親ともにせっつかれて、主人は特に、3才児に「ちゃんと、ちゃんと、しなくちゃいけませんよ」と、たしなめられています。
周囲の人からは、「しっかりしているわねェ」「お兄ちゃんか、お姉ちゃんがいるのかしら?」と、言われることはいつもながら、親からしてみれば、しっかりしすぎて、可愛らしさがないんじゃないのかしら。
子どもは、眠っている時が一番可愛いと、言われていますが、本当にそうですね。寝姿が、布団の何分の一しかなかった赤ちゃんが、3才半ともなれば、大の字に、ドカッと寝ているのですもの。その姿を見るたびに、「大きくなったのよね」と、まだ赤ちゃんだった頃のことや、出産の時のことを、時々思い出しては、ひとりでクスクス笑ったりしています。
そして、そういう時には、壱伊先生が、「子どもが健康であればこそ、幸せな家庭を築くことができるのですよ」と、また「そのためには、妊娠中から体を作る努力が必要です」とおっしゃられた言葉を、必ず思い出します。子どもの行動を見ていると、先生が教えてくださったいろいろな事が、ひとつひとつ現実となっているのですから不思議です。ですから、育児に関しては、食が細いというのがイマイチで、時々風邪をひきますが、心配するような事はありません。先程も申しましたように、親の方が……私も、かなりマメな方なのですが……子どもに引っ張られてきたような感じで、3年6か月を楽しく過ごしてきました。
面白いのは、「本当に美味しい食べ物は、ちゃんと知っている」という事。私が、ちょっと家計の具合を気にして買った食材や、手を抜いて作った料理は、少し食べておしまい。市販されているプリンやゼリー、色が鮮やかで、子どもが目をキラキラさせて食べるようなお菓子類は、どうも苦手なようです。スーパーに行っても「大きくなってからね」と、自分からは手を出しません。これから、友達付き合いが多くなれば、アッという間に変わってしまうでしょうけれど、今のうちは、これで良いのではないかと思っています。
さて、順番が逆になってしまいましたが、1991年4月8日、いよいよ出産当日、天気は雨でした。
楽しかったマタニティライフも最終日、私に似て?几帳面だったのでしょうか、予定日ちょうどの4月7日の朝におしるしがありました。
陣痛らしきものは無かったのですが、一応病院に電話をいれておいて「さて、当分の間、*ゆっくりと外出する
ことなんかできなくなっちゃうわ」とデパートへ行きました。時々、シクシク痛みが始まり、大きなお腹をさすりながら、赤ちゃん用品や自分たちの物までひととおり廻ってみて、レストランで食事をして………「私は今、陣痛が始まっているんです。なんて、周囲の人が知ったら、どんな顔をするかしらね」「破水しちゃったら……」とも考えませんでした。
私みたいに気が小さくて、臆病な人間が、なんか、みょうに落ちついちゃって。そのまま、お産の時まで落ち着いた気持ちでいられたのが、本当に不思議。
お腹や、腰をさすりながら、夕方病院に入りました。日曜日ということもあって、看護婦さんに「まだまだでしょうから、一度帰ったほうがいいんじゃない」と、言われてしまったのですが、「主人の仕事もあるし、明日になって来るのも大変だから、泊まらせてください」と頼んでちゃっかり入院。翌夕方、子宮が開くまで、「アイタタ、アイタタ」と、病院内を散歩していました。年齢のせいもあり、子宮口が固くて、なかなか開いてくれませんでしたけれど、医師は、薬も使わないで、気長にやってくれました。汗もかいたし、暇を持て余していたので、「シャワーを使わせてください」と、看護婦さんにお願いにいったところ、「じゃあ、診察をしてからね」「あら!もう開いているじゃない。陣痛室に入りましょう」それからはアレヨ、アレヨという間に進んで、微量の促進剤を打ってもらったら、1〜2分も経たないうちに、「はい、分娩室に行きますよ」ですもの。
陣痛の合間には、雑談なんかもできちゃって「TVドラマで、女優さんが、とても苦しそうに呻いているのは、いったいいつなのかしら」「出産経験がある友人が言っていた、忘れられない程の、ものすごーい痛さって嘘じゃない」なんて思っていたら、頭が見えてきたので、しっかり鏡を見ながら、最後のいきみと、力を抜いて。
「やったー女の子だ!ワーイ」 16時31分 2,736グラム。大成功。